pantune log

webディレクターの日々の記憶

UXという言葉は独り歩きせずに日常に寄り添える方がいい

バズワードから抜け出して、世の中的にUXという言葉だけが空回るような状況は少なくなってきたように思うが、しかし依然として具体的に語れる領域までは到達していないように思う。そしてそれはもちろん現在の僕に対しても当てはまる。所謂一方的な「事業判断」に対してのカウンターパンチとしての利用に留まるだけではその本質は掴めないし、本来であれば一撃で殺してやろうと使うような物ではないはずだ。

 

ゲームにおけるUXデザインからの学びは小さい頃から当たり前のように触れてきた人なら今振り返ると新しい発見があるように思う。

 

jp.techcrunch.com

 

ファイナルファンタジーにおけるチュートリアルの秀逸さはこの仕事をしていなかったら改めて思い出す事は無かったかもしれないが、逆に言えばそれほどに違和感なくゲーム内に溶け込んでいた。特に「初心者の館」なんてチュートリアルという意識をさせずに楽しんでいたように思う。

 

また記事内ではマイクロインタラクションを没入的な体験の一部と書いている。

 

マイクロインタラクションに時間をかけるべきか否かについては議論もあるが、テレビゲームの場合、マイクロインタラクションは没入的な体験の一部分だ。

クロノ・トリガー」は、ありふれた部屋でも色々試す価値のある、スーパーファミコンRPGゲームの1つだ。ゲームを始めると、母親に起こされ、目覚める最初の部屋がある。ここではカーテンを開けたり閉めたりできる。

 

まさにクロノトリガーなんかは通路に置いてあるオブジェクトに触れる事で音が出て、その音に気づいて敵が現れるなんて場面もある。スーパーファミコンでここまで細かい演出はあまりなかったような気がする。

 

マイクロインタラクションによる没入感という意味で言うと、知覚的であったり、聴覚的であったり、言い換えるのであれば「フィードバックによる感動」は非常に数値化しにくい部分だったりもするのだが、ユーザーを捉えて離さないサービスの仕掛けだったりする。神は細部に宿るという言葉をUXの文脈で話すのであれば、それはとても小さくて偉大な要素であるのかもしれない。

 

UXというくくりは多岐に渡るが故に、理解や認識がバラつく。そして、さも何でも出来る魔法のように捉えがちだったりするが、そこは利用する人間に寄るのだろう。世の中には銀の弾丸も魔法も存在しない。UXという言葉はあくまで認識させるための言葉であり、特別な事ではなく「当たり前」になった時に初めて成功すると言えるのかもしれない。